政府や議会との関係

政府や議会は国民の代表だから、もちろん国民とそれらの期間は敵対関係にあるわけではない。できれば信頼して、効率よく業務を行えるように互いに協力するのが望ましい一方、批判も必要である。ただし、単なる不信などでそれを拒むようでは健全とは言えない。国民の数が少なく、過去の失態が少ない政府や議会なら良い関係になりやすいが、日本はそうではないので難しいように思える。世代交代やインターネットの普及によって価値観が変わり、より良い関係になることも期待できる。

見えない数値

データを分析するうえで、得られないデータを考慮することが非常に重要になることがある。例えば、アメリカが第二次世界大戦中、戦闘機の生存率を上げるために、機体のどの部分を強化するべきかを模索していた。帰還した戦闘機の銃痕の数を調べると、両翼、後ろ側、前側に被弾が高く、エンジンの部分には被弾がなかった。結論として、エンジンの部分を強化することになった。なぜなら、帰還しなかったものはおそらくエンジンがやられていたからである。実際、この判断により、帰還率は上昇した。このように、見えない部分を想像により補う必要がある。

「美」とは何か

人は美を追求する。「美」には様々な種類があり、時代、地域によって異なる。一方、普遍的なものもあるのだろうか。それは分からない。

オーストリアのウィーンに行ったとき、私は感動と情けなさを覚えた。建物、街並み、人、ファッションなど、何もかも美しいと感じた。一方、これが普遍的なものかどうかを疑問に思った。ハリウッドやテレビの影響で、「美」の刷り込みが行われているのだろうか、と。明治以降の欧州へのコンプレックスがまだぬぐい切れていないのだろうか、と。

正解は分からないが、もしも刷り込みが行われていたら、それをした人の罪は大きい。柳宗光が主張したように、もしも珍しいもの、外国のものを「美しい」とした場合、国内のものの価値が小さくなってしまうからだ。普遍的な「美」があるのか、もっと考えていきたい。

富とは何か

富とは何だろうか。物的資源、人的資源、貯蓄などが挙げられるが、つまるところ生産力のことだろう。資源や貯蓄が生産力につながるが、それらが直接富を生むわけではなく、優れた頭脳と努力があって、生産し続ける能力こそが富である。

体罰は必要か

昨今、体罰を行うとかなり大きな問題になる。体罰は必ずしもとがめられるのだろうか。体罰は普遍的なものではない。例えば、アマゾンの奥地に住むある先住民族体罰がないが、ニューギニアのある民族には体罰が存在する。また、今でこそ「体罰はありえない」という風潮のヨーロッパも、たった150年までまでは普通に行われていた。体罰を行わないで済むのが最も好ましいが、痛みによってしか学べない人もいるというのも事実である。

数値の裏側

統計的な数値を見ても、その裏側まで見る必要がある。平均と中央値の違いはもちろん、そのデータのとり方にも注目するべきである。例えば、平均収入や収入の中央値が提示された時、連絡が取れずにそのデータから漏れた人、嘘をついている人なども含まれる。さらに、グラフも切り取り方によって解釈が変わることもある。注意深く無理必要がある。